怒りの原因は自分の中にあるということ

新年度が始まって1ヶ月が過ぎようとしている。昨年度は無理に無理を重ねて限界を超えてしまった感がある。

疲労が問題であるということはずっと考えてきたけれど、本当に深刻だ。まだ、完全に回復は出来ていないが、休んでいる間に見えてきたことはある。自分へのメモ。

何が嫌なのかを考えた

疲労が問題だということはずっとわかっていた。とにかく自分は体力がない。持病があることもあるのだが、すぐ疲れてしまう。この一年は自分でも認識できるくらい抑鬱的だった。

Mindmeisterで嫌になったことを思いつく限り書き出した。まずは仕事から考えてみた。

受験生を教えることが本当に嫌になってしまった。授業をすると考えただけで、吐き気、めまいがして、いよいよ本格的に受験生を教える仕事が無理になってしまったと感じている。

嫌になってしまった原因を考えると、結局のところ、自分の最上位の価値観と反している仕事になってしまったからだ。これは今までも考えてきたことではあった。

個人を尊重するというのが、自分の高度リストの上位にあるわけである。連絡をしない、記録をしない、嘘を付くということが今までもなかったわけではない。が、それでもなんとかしようという熱意はあったし、変わりたいと思う生徒に時間を費やすことは嫌ではなかった。

突き詰めて考えていくと、自分はコストは問題にしていなかったようだ。ビジネスとしてやっていなかったと言える。あかんな…

自分が辛いことは、今、仕事と家事だ。嫌なことを詳細に見ていけば、必ず対処の方法はあるはずだ。疲れは楽しいことですら苦しいものにさせる。ここまではわかっていたが、問題は自分が思っていたより根深いようだ。

楽しいことが楽しくなくなるのは疲労。なぜ、疲れるのか

自分の能力以上のことをやっているからだと思っていた。体力がないのが一番大きい。価値観と相反していると考えを進めたことは間違ってはないだろう。

もちろんそうではあるのだけれど、自分が疲れるような思考の癖があることが大きいのではないか。
怒りは外に原因があるわけではない。原因は自分の中にある。自分の思考次第で解決出来るのではないかと思い始めた。

考えを進める。

自分は、他者とのコミュニケーションに極端にコストが掛かるようだ。喋るのが仕事の多くの部分を占めているにも関わらず、おかしな話ではあるのだが。喋るのが苦手と思ったこともないから、全く気づかなかった。

昔は今より体が悪くなかったから、それもあるのかもしれない。

なぜ、他者とのコミュニケーションにそんなにコストを感じるかと言うと、結局、体力の無さが原因だ。卵が先か、鶏が先かということになるのだが…

体が悪いということは、決められた時間に動くのが非常に厳しい。薬の効き方も日によって一定というわけではない。時間が決まっているものをやるのは細心の注意を払って体調や気持ちを持っていく必要がある。

体力の無さや、この時間に何をやらなければならないと言うことなどを説明するコストを掛けることもきつい。コミュニケーションを取らなければ、他者が理解できないにも関わらず、そのコストを支払うことが出来ない。どん詰まりや…

それなら、自分でやってしまえとなる。で、更に疲労を溜め込むわけである。また、ボンクラなくせに自分の満足する基準が高い。己を知らないといけませんね。うう、恥ずかしい…

コミュニケーションに極端にコストを感じる時は疲れている。そして、疲れていなければ、コミュニケーションは苦痛ではない。疲労がある、体調が悪い時はいかに自分という人間の本来ある状態から遠くなるかということだ。

面白いもので、体力的に余裕があるときに、何かに怒るかといったら、怒ることはほとんど自分はないことに気づいた。普段、自己と他者の分離は出来ている。

こんな簡単なことなのに、気づかないのは、我ながらレジェンド級のボンクラやな…

自分のベストの状態は、他者に期待しないことだ。見えてきたことは、他者に怒りの感情を覚える時は、自分がおかしいということだ。


もう少し、他者に期待しないことがなぜ重要か考えてみる。

他者に期待しないことがなぜ、自分にとってベストなのか

これは、自分の価値観の上位にある、主体性を持つということから導き出せる。

そもそも、自分と別の存在である他者が自分の考え方を理解できるはずもない。
また、自分にとって価値があるものが、他者にとっても価値があるということはない。

根本的に相互理解というのは不可能だし、部分的な理解でいいはずだ。
自分の価値観だけで物事を判断するというのは、自分がもっとも嫌ってきたことの一つだ。自分にはわからない世界があるということは、多様性があるということだ。

多様性がない社会など、無限に自己を敷衍するグロテスクな世界だ。
個人を尊重するという自分が重要に思っている価値観と真逆である。

それ、「人は人」というやつである。期待しないと言う言い方は適切ではないか。期待はするけど頼みにはしないということか。

自分の価値観を人に押し付けることは絶対にしたくない。それなのにわかってほしいというのはそもそも矛盾している。シンプルではない。自分が重要に思っている価値観からことごとく外れている。

大体、ファンキーなひとって何を言ってるかわからないわけである…

何を言っているかよくわからないと思うが、JBがバンドメンバーに出している指示はフレッドやメイシオには全く意味不明だったとインタビューで述べていたりするわけだ。だいたい、シャウトして意味を汲み取れって無理がすぎるやろ… 理不尽すぎます…

死んでからバンドメンバーに常にディスられるJBが、ファンクの父なわけである。

まあ、マーヴィンも何も言ってるか全然わからないこともあるしな…

相互理解は出来ないのが基本。レジェンド達は教えてくれているのだ…

ファンキーということは矛盾を受け入れること。多様性を受け入れることだ。ミニマルであることと過剰であることは共存できる。まあ、Oneさえあってればええわけだ。それは、多分、人間関係に置き換えれば、個人を尊重するということに還元できるだろう。

自分が疲れていなければ、わからないことも、ファンキーだと思える。楽しめる。
大体ファンキーであればうまくいくんである。

寛容さ、ユーモアというのはある種の距離があってはじめて成立しないか?

こんなおっさんになってるのに、自他の境界線が薄くなっている幼児性があるとは思わなかった。体はおっさん、心は幼児である。バブー!

他者は変えられないが、自分は変えられる

他者を変えたいと思ってはそれは無理なことだし、普段ならそんなことは思わないわけである。

長所と短所は程度でしかない。気遣いはおせっかいになり、寛大さはいい加減さともつながっている。

そして、その多くは自分の状態で感じ方が変わるのだ。

他者は変えられないが、自分は変えられる。そして他者にこうしてほしいと依存してしまう事になってしまったら、主体性を失うことになってしまう。

人を尊重するということは、孤独を内包することだ。他者を尊重しつつ、主体性を手放さないことは出来るはずだ。

では、どうするか

まず、働くのを中心に考えたら駄目だ。

疲れる原因は仕事。家事。

だから、仕事をしてはいけないのだ…

いや、ロジカルに考えるとそうだけどそれじゃ、生活できませんよねえ…

今まで、いろいろ落ち着いてから少しずつ無理がないようにしていきたいと思っていた。経済的な制約があるから、働くことが前提だった。

だが、それは正しかったのか。今のこの状態は、回復するかどうかはわからない。手が利かなくなってるから鍋をひっくり返して結構なやけどをしてしまった。手のしびれのせいもあるのだろうが。今までそんなことにはなったことはない。回復はもうなく、この状態が続くかもしれない。

この状態が続くどころか、もっと悪くなるということもあるわけだ。

この半年はまともに頭が働いていない。たったこれくらいの文章を書くことも出来なかった。いつも頭の中がスッキリしない。加齢もあるだろう。この状態が普通になるのであれば、もう、今までの働き方は出来ないということだ。

はじめから働く日、時間を限定する

4月から実行した。授業としては、月曜日、木曜日、金曜日しかやらない。実際には事務作業をやっているから、365日休みはないのだけれど、来年度からは土日の事務作業はやらない。

3日しか受験生は教える仕事はしない。3日という制限の中でどこまで出来るかやってみる。

一時期の本当にひどい状態よりは、少し回復してきているように思えるのは、そもそもの労働時間が長すぎたということも大きいのだろう。少なくとも、昨年度と同じ働き方をしたら一年生きられない。

仕事の内容を変える 

自分が今年を含めて3年で完全に教えることから引退することはスタッフにも伝えてある。決まった時間に働くことは体力的には厳しい。でも、時間が固定されてなかったのならまだ働ける。

そして、今のスタッフは自分も含めて、全員体が悪い。普通の会社で働くことは出来ないわけではないが難しいだろう。

だが、プログラムを書くことが出来て、文章を書くことが出来て、演奏が出来て、Webサイトを作ることが出来て、翻訳が出来る人間がいるわけである。

収益性が高いから受験生を教えることをやってきたが、別に、それに拘る必要はない。人間を変えずに仕事内容を変える。今までやってきたのは、仕事の内容を変えるときには、人間も変わった。が、それって効率から考えたら正しいように見えるけど、本当にそうなのか?

快適な時間が長くなればなるほど、幸福度は上がる。今、受験生を教えることが嫌になったのは、仕事が嫌になったのではなく、人間が嫌になったからだ。

今の自分のチームは、気心も知れている。自分が大事に思う人間と仕事している方が、ストレスがたまらず楽しく出来る。快適な時間が長くなればなるほど、幸福度が上がることは間違いないわけだ。

人間を変えない。自分が仲間と思えるような人間と仕事をする。健康でない人で普通には働けないけど、働けるような仕組みを作る。

お、そう思ったらちょっと気持ちが盛り上がってきましたよ。生徒も、自分が人生を変えようと思っている生徒なら教えるのは全然いやではない。考えると、自分が好きだと思える人間のために時間を使うべきということですね。

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猫とカバと音楽が好き。 ネットと日本の片隅で生きてます。