信じることについて考える 

信じることについて考える

信じることについて考えてみたい。

とても冷静ではいられないから、自分の考えを整理するために書く。

久しぶりに友人と長く話す機会があって考えた。考えている。

絶望とは可能性が固定されたことだと思っている。絶望が常に周りにある中で生きてきた。今もそれに抵抗しようと生きている。誰だってそうだろう。

ロクでもない生き方をしてきた。

もともと持病があったことに加えて、自分が本当に得たかったものを得られなかった挫折感を燃料にして生きてきたようなところがある。認めたくはないけれど。

それでも諦めきれずに、学び続けた。諦めが悪い。頭が悪いということだ。

子供の頃から音楽が溢れる環境で育ってきた。

親に残されたものは借金くらいかと思っていたが、読書と音楽を愛することを与えてくれたことは感謝するべきなのだろうな。

孤独だった。苦痛にも感じなかったが。

病気やリハビリで病院にいると、自分が社会から隔絶していると感じるものだ。

自分一人が生きようが死のうが、人口を表す数字が一つ減るだけ。

なんの意味があるというのか。なんの意味もない。

自分に使われる社会保障費は、もっと可能性がある人間に割り振ってほしい。

無意味さと苦しみしかないと人間は無感覚になる。ニヒリズムに陥るわけだ。

小学校上がるくらい前にこうなってしまうのだから病気というのは恐ろしい。

こうなると、共同体の感覚は養われない。苦しみと無意味さと戦うことで一日が終わる生活では、他者の存在というのは希薄になる。

教育の究極の目標は市民を作ることだろうが、市民になれなかった。ある種のフリークスといってもいいかもしれない。

幸い日常生活できるようになったものの、いろいろな制限が生活であった。

叔父が音楽を演奏する術を与えてくれたことで、同年代の人間と交流できるようになった。

はじめて他者を発見したといえるわけだ。

ただ、それでも苦しみが日常にあるわけではない人間と自分との距離は感じていた。しかたないなと。

ずっとブラック・ミュージックを聞いて育った。

自分が好きな音楽を知りたいと思う。そうやって言葉を学んだ。

環境的に学びやすかったことも幸いしたのだろう。

ブルースに特に影響を受けた。

ブルースマンは共同体に属さない個人であるということにある。悪魔の音楽と呼ばれたのはよく分かる。教会というコミュニティから外れているわけだから。

ブルースは徹底して個の音楽だ。

街から街への旅ぐらしだったり、恋人の裏切りなどの報われぬ愛。痛みを和らげるための酒。絶対的な孤独。つかの間の安息。怒り。逃亡。

身の回りのことがブルースのテーマだ。

苦しみがあるなかで、絶望しつつも生きる個人がいた。

遠く離れた日本で、時間的にも昔の音楽がひどくリアルに感じられた。

自分と同じだな。

エイリアンが人間に擬態して地球に住んでいる。そんな思いにとらわれることがあった。

ブルースで歌われる登場人物は、同級生なんかよりずっと近い存在に感じられたのである。

他者を理解できない苦しみ。すべての苦しみは人間が人間であることにあるのではないか。

ブルースマンの痛みを理解することは出来ないが、痛みを持った個人であるところには共感できる。

自分と異なる他者と感情を共有できることを知ったと言える。だから、違うことは本当に重要なのだ。

自分と同じ考え、物の見方を持つだけでは、世界に無限に自分を敷衍しているのと同じだ。

エイリアンがはじめて他のエイリアンを見つけた。宇宙で自分しか種がいない生き物が、地球上ではじめて仲間を見つけたようなものだ。

ここには居場所はないかもしれない。でも、仲間はいる。空間は離れていても。たとえ時間が離れていたとしても。

 

 

 

 

 

 

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猫とカバと音楽が好き。 ネットと日本の片隅で生きてます。